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2008年11月7日
2007年9月27日
彼をめぐる騒動
2007年関東アマチュアゴルフ選手権にて、TBSが石川に取材を試みようとし、同伴競技者に小型マイクを装着する依頼を行った。しかし、依頼は通らず、選手は大会主催者に報告をした。また、同日にTBSのヘリコプターを大会中に飛ばし、プレイを妨げる事件が起きた[4]。この迷惑行為により、TBSは関東ゴルフ連盟に謝罪を行い、同日午前放送の番組で陳謝した[5]。また、同局の「筑紫哲也NEWS23」の膳場貴子キャスターが石川宛にしたためたラブレターをスタッフが手渡そうとしたことも発覚。ちなみに、この作戦は失敗に終わった。
また2007年の全米オープンの開幕前の会見でテレビ朝日の記者がタイガー・ウッズとフィル・ミケルソンに「ハニカミ王子知ってる?」と質問し、産経新聞に「メジャーの舞台では全く場違いな質問であり、世界中の記者から失笑がもれた」と報じられた。だがウッズとミケルソンは大人の対応でその質問に答えた。またテレビ朝日はウッズには事前に石川のプレーを見せており、むしろ大会前の貴重な時間に全く関係のないビデオを見せたことの方が問題といえよう(ただウッズとテレ朝の関係は良好であり、大きな問題にはならなかった)。
2007年9月3日、ギネスブック認定会見では、日本テレビの番組「ラジかるッ」のカメラが主催者の許可無く勝手に取材をし、お笑い芸人が石川にポーズを強要したとのことで主催者側の怒りを買うという事件も発生。なお、同局は映像の放送を自粛した。
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また2007年の全米オープンの開幕前の会見でテレビ朝日の記者がタイガー・ウッズとフィル・ミケルソンに「ハニカミ王子知ってる?」と質問し、産経新聞に「メジャーの舞台では全く場違いな質問であり、世界中の記者から失笑がもれた」と報じられた。だがウッズとミケルソンは大人の対応でその質問に答えた。またテレビ朝日はウッズには事前に石川のプレーを見せており、むしろ大会前の貴重な時間に全く関係のないビデオを見せたことの方が問題といえよう(ただウッズとテレ朝の関係は良好であり、大きな問題にはならなかった)。
2007年9月3日、ギネスブック認定会見では、日本テレビの番組「ラジかるッ」のカメラが主催者の許可無く勝手に取材をし、お笑い芸人が石川にポーズを強要したとのことで主催者側の怒りを買うという事件も発生。なお、同局は映像の放送を自粛した。
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ハニカミ王子
石川 遼(いしかわ りょう、1991年9月17日 - )は、埼玉県松伏町出身の杉並学院高等学校所属のアマチュアゴルフ選手である。血液型O型(当時はB型説が有力だった)。身長171㎝。
6歳の頃、父に連れられてゴルフ練習場に行った事をきっかけにゴルフにのめりこむ。
中学校では、ゴルフ部ではなく陸上部に所属した。これは、短距離走で足の筋力と体力を付けるため。
小さいころから負けず嫌いだった。
アマチュア
2005年、関東中学校選手権、全国中学校選手権優勝を初め、中学生大会で常に上位レベルを誇る実績を持ち、高校生となった2007年に行われたマンシングウェアオープン KSBカップで、日本のプロゴルフ大会においての史上最年少優勝を達成し注目を集めた。
男子ツアーでのアマチュア優勝も「中四国オープン」で優勝した1980年、倉本昌弘以来で史上2人目[1]。
優勝した2007年のマンシングウェアオープン KSBカップは大会初日が暴風のため中止となったため、最終日に2ラウンドが行われた。高校生でありながら36ホールを回っての逆転優勝(2日目終了時点で7打差の23位)は特筆すべき勝負強さである[2]。
その優勝した大会のインタビューでの言動から「ハニカミ王子」というニックネームが付いている。ちなみにその名づけ親は、この大会のテレビ中継を実況し、彼の優勝インタビューの最中にふと彼を「ハニカミ王子」と呼んだ瀬戸内海放送(KSB)の多賀公人アナウンサーである。まさに優勝した瞬間に生まれたニックネームであった。優勝記者会見で石川本人も「ハニカミ王子」のニックネームについてコメントした。なお、優勝当日フジテレビジョンの新報道プレミアAでは、サンバイザーをつけている姿から「サンバイザー王子」と呼んでいたが、まったく定着しなかったため翌週から「ハニカミ王子」と呼んでいた。
2007年5月25日、優勝報告のため埼玉県庁を訪れた際、上田知事から県のマスコット・コバトンのぬいぐるみが贈られた。
2007年の日本アマチュア選手権は2日目にスコアを崩してしまい、予選通過はならなかった。来年以降の活躍に期待が持たれる。
2007年7月14日、世界ジュニア選手権に出場のため石川含む男女6選手が渡米。
2007年8月17日、日本ジュニアゴルフ選手権 男子15歳~17歳の部(霞ヶ関CC)、大会史上最年少の15歳11ヶ月で初優勝。スコアは大会レコードタイとなる3日間通算9アンダーで204。
2007年8月、フジサンケイクラシックに出場。2日目まで首位と3打差の6位だったが3日目でスコアを落とし、結局3日間通算1オーバーの214で15位に終わる。
2007年9月3日、世界最年少優勝記録(15歳245日)のギネスブック認定を受け、認定証授与式を東京都内で行った。これにより石川の通称「ハニカミ王子」に「ギネス王子」が加わった。
6歳の頃、父に連れられてゴルフ練習場に行った事をきっかけにゴルフにのめりこむ。
中学校では、ゴルフ部ではなく陸上部に所属した。これは、短距離走で足の筋力と体力を付けるため。
小さいころから負けず嫌いだった。
アマチュア
2005年、関東中学校選手権、全国中学校選手権優勝を初め、中学生大会で常に上位レベルを誇る実績を持ち、高校生となった2007年に行われたマンシングウェアオープン KSBカップで、日本のプロゴルフ大会においての史上最年少優勝を達成し注目を集めた。
男子ツアーでのアマチュア優勝も「中四国オープン」で優勝した1980年、倉本昌弘以来で史上2人目[1]。
優勝した2007年のマンシングウェアオープン KSBカップは大会初日が暴風のため中止となったため、最終日に2ラウンドが行われた。高校生でありながら36ホールを回っての逆転優勝(2日目終了時点で7打差の23位)は特筆すべき勝負強さである[2]。
その優勝した大会のインタビューでの言動から「ハニカミ王子」というニックネームが付いている。ちなみにその名づけ親は、この大会のテレビ中継を実況し、彼の優勝インタビューの最中にふと彼を「ハニカミ王子」と呼んだ瀬戸内海放送(KSB)の多賀公人アナウンサーである。まさに優勝した瞬間に生まれたニックネームであった。優勝記者会見で石川本人も「ハニカミ王子」のニックネームについてコメントした。なお、優勝当日フジテレビジョンの新報道プレミアAでは、サンバイザーをつけている姿から「サンバイザー王子」と呼んでいたが、まったく定着しなかったため翌週から「ハニカミ王子」と呼んでいた。
2007年5月25日、優勝報告のため埼玉県庁を訪れた際、上田知事から県のマスコット・コバトンのぬいぐるみが贈られた。
2007年の日本アマチュア選手権は2日目にスコアを崩してしまい、予選通過はならなかった。来年以降の活躍に期待が持たれる。
2007年7月14日、世界ジュニア選手権に出場のため石川含む男女6選手が渡米。
2007年8月17日、日本ジュニアゴルフ選手権 男子15歳~17歳の部(霞ヶ関CC)、大会史上最年少の15歳11ヶ月で初優勝。スコアは大会レコードタイとなる3日間通算9アンダーで204。
2007年8月、フジサンケイクラシックに出場。2日目まで首位と3打差の6位だったが3日目でスコアを落とし、結局3日間通算1オーバーの214で15位に終わる。
2007年9月3日、世界最年少優勝記録(15歳245日)のギネスブック認定を受け、認定証授与式を東京都内で行った。これにより石川の通称「ハニカミ王子」に「ギネス王子」が加わった。
ハンカチ王子フィーバー
2006年の夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれて、斎藤が試合中にマウンド上でポケットに入れた青いハンカチで“上品に”顔の汗を拭く姿が、端正な顔立ちも相まって徐々にマスコミに採り上げられ(普通の選手はユニフォームの袖で額を拭う)、その頃から「ハンカチ王子」という愛称で呼ばれるようになる。
決勝再試合のスコアボード駒大苫小牧との決勝戦では延長15回1-1で決勝戦としては37年ぶりの引き分け再試合となり、延長になっても衰えない球速や落ち着いた様子などでさらに注目を浴び、翌日の決勝再試合でも前日の疲れを全く見せない投球で早稲田実業の初優勝に大きく貢献した。決勝戦はNHKで視聴率29.1%、決勝再試合も平日の日中にもかかわらず23.8%と高視聴率を記録。優勝時のインタビューでは家族や野球部員への感謝の気持ちを素直に表し、その誠実さや精神的な強さが彼の魅力としてさらにマスコミに取り上げられるようになる。
また「斎藤が使っているハンカチはどこのものか」といった問い合わせが百貨店や早稲田実業に殺到しているとマスコミで報道され、実際にYahoo! オークションで同じ種類のハンカチが1万円を超える値がついたり、「輝け甲子園の星」など斎藤を扱った雑誌の売り上げが急激に伸び、写真集も発売されるなどフィーバーの様相を呈してくる。
青いハンカチについて初めのうちはブランドさえも分からなかったのだが、その後ニシオ株式会社(本社・大阪市)が製造・販売していた「GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)」のハンカチだと判明。しかし2005年に製造が中止されていたためレアハンカチになった。その後ニシオ株式会社はサンリオ社をタイアップに「幸せの青いハンカチ」と銘打ち、2006年10月29日から「HELLO KITTY」のロゴとともに、キティちゃんの顔をあしらった青いハンカチを販売。
2006年8月31日から行われた日米親善高校野球の選抜メンバーに選ばれ渡米。それまで報じられることはほとんど無かったが、連日試合の模様が報道され生中継も行われた。メンバーには駒大苫小牧の田中将大投手もおり、インタビューでお互いをどう呼んでいるかと言う質問に対し「佑ちゃんです」「マー君です」と答え、(これは選抜チームの監督を務めた早実の和泉実監督が交流を図るため、名字で呼ぶことを禁止したためである)それ以降マスコミではこの愛称も使用されるようになった。帰国の際には関西国際空港に500人以上のファンが集まる。
2006年9月11日に自身の進路について記者会見にて大学進学を表明した際、会場には150人以上の報道陣が集まり、テレビで生中継もされた。
2006年9月30日に開幕したのじぎく兵庫国体夏季・秋季大会では、試合前から斎藤の出場に関する問い合わせが野球会場がある高砂市に殺到。早稲田実業の試合には連日観戦客の徹夜組も登場するなど試合前日から長蛇の列ができた。試合当日も観客が殺到し多くの警備員による厳戒態勢のもと、異例の入場整理券が発行され入場制限が行われるなど国体史上稀にみる盛り上がりを見せた。さらに決勝戦はこの年の甲子園大会決勝戦の再現となる早稲田実業対駒大苫小牧の試合となり、盛り上がりに拍車をかけた。
「ハンカチ王子」は2006年の流行語大賞有力候補となり、結果的に大賞は逃したが流行語大賞のトップテンに入った。しかし候補となった際に高野連から「アマチュアである高校野球が受賞するのは不適切」とのコメントが出された[1]。また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標登録が出願されている[2]。
斎藤が登板する試合には、それまでの野球ファンに加え幅広い年齢層の女性ファンが球場に足を運んだり、週刊女性などの女性週刊誌で表紙を飾ったりした。
「ハンカチ王子」と呼ばれることに対し斎藤本人はスポーツ報知のインタビューで「『ハンカチ王子』は、もう終わりです。国体で最後に出したので、もうあれでいいかなと」と語っている。
決勝再試合のスコアボード駒大苫小牧との決勝戦では延長15回1-1で決勝戦としては37年ぶりの引き分け再試合となり、延長になっても衰えない球速や落ち着いた様子などでさらに注目を浴び、翌日の決勝再試合でも前日の疲れを全く見せない投球で早稲田実業の初優勝に大きく貢献した。決勝戦はNHKで視聴率29.1%、決勝再試合も平日の日中にもかかわらず23.8%と高視聴率を記録。優勝時のインタビューでは家族や野球部員への感謝の気持ちを素直に表し、その誠実さや精神的な強さが彼の魅力としてさらにマスコミに取り上げられるようになる。
また「斎藤が使っているハンカチはどこのものか」といった問い合わせが百貨店や早稲田実業に殺到しているとマスコミで報道され、実際にYahoo! オークションで同じ種類のハンカチが1万円を超える値がついたり、「輝け甲子園の星」など斎藤を扱った雑誌の売り上げが急激に伸び、写真集も発売されるなどフィーバーの様相を呈してくる。
青いハンカチについて初めのうちはブランドさえも分からなかったのだが、その後ニシオ株式会社(本社・大阪市)が製造・販売していた「GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)」のハンカチだと判明。しかし2005年に製造が中止されていたためレアハンカチになった。その後ニシオ株式会社はサンリオ社をタイアップに「幸せの青いハンカチ」と銘打ち、2006年10月29日から「HELLO KITTY」のロゴとともに、キティちゃんの顔をあしらった青いハンカチを販売。
2006年8月31日から行われた日米親善高校野球の選抜メンバーに選ばれ渡米。それまで報じられることはほとんど無かったが、連日試合の模様が報道され生中継も行われた。メンバーには駒大苫小牧の田中将大投手もおり、インタビューでお互いをどう呼んでいるかと言う質問に対し「佑ちゃんです」「マー君です」と答え、(これは選抜チームの監督を務めた早実の和泉実監督が交流を図るため、名字で呼ぶことを禁止したためである)それ以降マスコミではこの愛称も使用されるようになった。帰国の際には関西国際空港に500人以上のファンが集まる。
2006年9月11日に自身の進路について記者会見にて大学進学を表明した際、会場には150人以上の報道陣が集まり、テレビで生中継もされた。
2006年9月30日に開幕したのじぎく兵庫国体夏季・秋季大会では、試合前から斎藤の出場に関する問い合わせが野球会場がある高砂市に殺到。早稲田実業の試合には連日観戦客の徹夜組も登場するなど試合前日から長蛇の列ができた。試合当日も観客が殺到し多くの警備員による厳戒態勢のもと、異例の入場整理券が発行され入場制限が行われるなど国体史上稀にみる盛り上がりを見せた。さらに決勝戦はこの年の甲子園大会決勝戦の再現となる早稲田実業対駒大苫小牧の試合となり、盛り上がりに拍車をかけた。
「ハンカチ王子」は2006年の流行語大賞有力候補となり、結果的に大賞は逃したが流行語大賞のトップテンに入った。しかし候補となった際に高野連から「アマチュアである高校野球が受賞するのは不適切」とのコメントが出された[1]。また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標登録が出願されている[2]。
斎藤が登板する試合には、それまでの野球ファンに加え幅広い年齢層の女性ファンが球場に足を運んだり、週刊女性などの女性週刊誌で表紙を飾ったりした。
「ハンカチ王子」と呼ばれることに対し斎藤本人はスポーツ報知のインタビューで「『ハンカチ王子』は、もう終わりです。国体で最後に出したので、もうあれでいいかなと」と語っている。
東京六大学野球
2007年の東京六大学野球春季リーグで1年生ながら東京大学との開幕戦に初登板初先発で初勝利をあげる。前述の通り80年ぶりの快挙。
法政大学戦・明治大学戦・慶應義塾大学戦では2戦目の先発を任された。2戦目を重視する應武篤良監督も「ココイチ(ここ一番の経験が豊富)の斎藤」と厚い信頼をおいた。
人気が低迷していると言われていた東京六大学野球も、斎藤が早稲田大学野球部に入部した2007年から日本テレビが試合中継に乗り出し、2007年5月20日に行われた明治大学との試合では観客3万人を超えた。
2007年6月3日、東京六大学野球春季リーグで早稲田大学の優勝が決定し、勝利投手となった日には神宮球場に約3万6000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦第2戦以来10年ぶり。また2007年の春季リーグの早大戦には、観客数が11試合に22万8000人、1試合平均2万727人集まり、2006年春の13試合に9万9000人、1試合平均7615人と比べ3倍近くになった。
第36回日米大学野球選手権大会第3戦で先発し、6回を2安打1失点に抑え勝利投手となった。同大会において、日本チームの1年生投手が勝利投手となったのは初めてであった。
2007年9月8日、東京六大学秋季リーグ戦開幕戦となる対東大戦で先発を務めた。1年生投手が春秋ともに開幕戦の先発を務めるのは1929年帝大(現東大)の古館理三以来4人目。この試合で7回を投げ被安打3失点0で勝利投手となった。1年生投手が春秋ともに開幕戦勝利を収めたのは宮武以来80年ぶり。
同年9月23日の対法政2回戦で4回に5安打を集中されるなど8安打を打たれ6回2失点。打線の援護が乏しくリーグ戦での初黒星を喫した。
法政大学戦・明治大学戦・慶應義塾大学戦では2戦目の先発を任された。2戦目を重視する應武篤良監督も「ココイチ(ここ一番の経験が豊富)の斎藤」と厚い信頼をおいた。
人気が低迷していると言われていた東京六大学野球も、斎藤が早稲田大学野球部に入部した2007年から日本テレビが試合中継に乗り出し、2007年5月20日に行われた明治大学との試合では観客3万人を超えた。
2007年6月3日、東京六大学野球春季リーグで早稲田大学の優勝が決定し、勝利投手となった日には神宮球場に約3万6000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦第2戦以来10年ぶり。また2007年の春季リーグの早大戦には、観客数が11試合に22万8000人、1試合平均2万727人集まり、2006年春の13試合に9万9000人、1試合平均7615人と比べ3倍近くになった。
第36回日米大学野球選手権大会第3戦で先発し、6回を2安打1失点に抑え勝利投手となった。同大会において、日本チームの1年生投手が勝利投手となったのは初めてであった。
2007年9月8日、東京六大学秋季リーグ戦開幕戦となる対東大戦で先発を務めた。1年生投手が春秋ともに開幕戦の先発を務めるのは1929年帝大(現東大)の古館理三以来4人目。この試合で7回を投げ被安打3失点0で勝利投手となった。1年生投手が春秋ともに開幕戦勝利を収めたのは宮武以来80年ぶり。
同年9月23日の対法政2回戦で4回に5安打を集中されるなど8安打を打たれ6回2失点。打線の援護が乏しくリーグ戦での初黒星を喫した。
甲子園大会
2006年の夏の甲子園大会では、準決勝までの5試合に全て先発し相手を2点以内に抑え、また、3回戦では本塁打を放つなど、1980年以来26年ぶり夏の決勝進出に貢献。
決勝戦では、夏の大会3連覇を目指した駒大苫小牧の田中将大との投手戦となり、延長15回でも決着がつかず、1969年夏の松山商-三沢戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった。そして決勝再試合でも斎藤は自ら先発を志願、4日間42イニングを全て一人で投げきった。そして再試合では4-3と駒大苫小牧に競り勝ち、「クールな豪腕」と言われた斎藤は感極まって男泣きし、嬉し涙をハンドタオルで拭うシーンがテレビ中継で大きく放映された。
夏の大会で69イニングスに登板、948球の投球でどちらも史上1位。一大会における78個の奪三振記録は1958年の板東英二の83個に次いで歴代2位。
決勝戦では、夏の大会3連覇を目指した駒大苫小牧の田中将大との投手戦となり、延長15回でも決着がつかず、1969年夏の松山商-三沢戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった。そして決勝再試合でも斎藤は自ら先発を志願、4日間42イニングを全て一人で投げきった。そして再試合では4-3と駒大苫小牧に競り勝ち、「クールな豪腕」と言われた斎藤は感極まって男泣きし、嬉し涙をハンドタオルで拭うシーンがテレビ中継で大きく放映された。
夏の大会で69イニングスに登板、948球の投球でどちらも史上1位。一大会における78個の奪三振記録は1958年の板東英二の83個に次いで歴代2位。
ハンカチ王子
家族は父・母・兄・祖母。父は富士重工業硬式野球部に所属していた。
満田拓也の漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、小学校1年生から野球を始める。
新田町立生品小学校在籍中は地元リトルリーグ『生品チャンピオンズ』に在籍し主将を務める。
同町立生品中学校では軟式野球部に所属。県大会では準優勝、関東大会では準々決勝にまで進み、このころ地元紙『上毛新聞』に取り上げられる。
2004年4月、スポーツ推薦で早稲田実業学校に進学後は野球部に所属し、実家を離れ東京で兄と二人暮しをしていた。1年からベンチ入りし、2年夏では先発投手として起用されるも、西東京大会の準決勝で3本の本塁打を浴びるなど、日大三に1-8の7回コールド負けで敗退。その秋の都大会では同じく準決勝で日大三と対戦し2-0で完封勝利を挙げている。そのまま決勝も制し春の選抜のキップを手にした。11月の神宮大会では準決勝戦で夏の覇者の駒大苫小牧と戦い、3-5で敗れる。2年夏からエース番号「1」となり、秋からはチームの副キャプテンとなる。
2006年、春の選抜に出場し2回戦で関西高校と引き分け再試合の死闘の末4-3で勝利、準々決勝に進出するも横浜高校に打ち込まれて途中降板し、チームも敗退した。その夏の西東京大会では決勝で三たび日大三高と対戦し、延長戦の末サヨナラ勝ちを収め夏の甲子園大会出場を決めた。甲子園では決勝戦で引き分け再試合を投げ抜き4-3で優勝投手となる。それ以降、その活躍と魅力によってマスコミに大きく取り上げられるようになる。同年の日米親善高校野球やのじぎく兵庫国体に出場。国体でも再び優勝投手となった。
2007年4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学。同大学体育会野球部に入部在籍。
2007年4月14日、東京六大学野球春季リーグの開幕戦(東大戦)で1年生ながら開幕投手を務め勝利投手となった。1年生が開幕投手で勝利をおさめたのは1927年の慶大の宮武三郎以来80年ぶり。
2007年6月3日、「中学生の時から憧れていた」という早慶戦の第2戦で勝利投手となる。この試合で早稲田大学は2季連続リーグ優勝を達成。2007年春季リーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり(東京六大学リーグにはセーブの制度はない)、チームの10勝中6勝に関与、秋春連続優勝に貢献した。1年生投手としては史上初めて、春季リーグ戦のベストナインに選出された。また東京六大学野球連盟がインターネット上で実施したファン投票によるMVPにも2位を大きく引き離す2,463票を集めて選出された。
さらに6月に開催された第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め各1失点で後続につないで2勝を記録、大会最高殊勲選手に選ばれた。
2007年7月に米国で開催される第36回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。代表監督を務める河原井正雄青山学院大監督は「(不敗神話に賭けるというより)勝ってもらわないと困る」「空振りを取れる球を持っている選手を選んだ。順番的にはトップクラスでの当選。(斎藤を)先発で行こうという気はある」などと語り、期待を寄せた。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し勝利投手となったが、リリーフで登板した第5戦では一転して制球を乱し、敗戦投手となった。
2007年の日米大学野球選手権では米メディアに対し「日本のプロ野球を経験してから、メジャーに行きたい気持ちはある」と、将来的なメジャーリーグ行きの意向を示した。
満田拓也の漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、小学校1年生から野球を始める。
新田町立生品小学校在籍中は地元リトルリーグ『生品チャンピオンズ』に在籍し主将を務める。
同町立生品中学校では軟式野球部に所属。県大会では準優勝、関東大会では準々決勝にまで進み、このころ地元紙『上毛新聞』に取り上げられる。
2004年4月、スポーツ推薦で早稲田実業学校に進学後は野球部に所属し、実家を離れ東京で兄と二人暮しをしていた。1年からベンチ入りし、2年夏では先発投手として起用されるも、西東京大会の準決勝で3本の本塁打を浴びるなど、日大三に1-8の7回コールド負けで敗退。その秋の都大会では同じく準決勝で日大三と対戦し2-0で完封勝利を挙げている。そのまま決勝も制し春の選抜のキップを手にした。11月の神宮大会では準決勝戦で夏の覇者の駒大苫小牧と戦い、3-5で敗れる。2年夏からエース番号「1」となり、秋からはチームの副キャプテンとなる。
2006年、春の選抜に出場し2回戦で関西高校と引き分け再試合の死闘の末4-3で勝利、準々決勝に進出するも横浜高校に打ち込まれて途中降板し、チームも敗退した。その夏の西東京大会では決勝で三たび日大三高と対戦し、延長戦の末サヨナラ勝ちを収め夏の甲子園大会出場を決めた。甲子園では決勝戦で引き分け再試合を投げ抜き4-3で優勝投手となる。それ以降、その活躍と魅力によってマスコミに大きく取り上げられるようになる。同年の日米親善高校野球やのじぎく兵庫国体に出場。国体でも再び優勝投手となった。
2007年4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学。同大学体育会野球部に入部在籍。
2007年4月14日、東京六大学野球春季リーグの開幕戦(東大戦)で1年生ながら開幕投手を務め勝利投手となった。1年生が開幕投手で勝利をおさめたのは1927年の慶大の宮武三郎以来80年ぶり。
2007年6月3日、「中学生の時から憧れていた」という早慶戦の第2戦で勝利投手となる。この試合で早稲田大学は2季連続リーグ優勝を達成。2007年春季リーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり(東京六大学リーグにはセーブの制度はない)、チームの10勝中6勝に関与、秋春連続優勝に貢献した。1年生投手としては史上初めて、春季リーグ戦のベストナインに選出された。また東京六大学野球連盟がインターネット上で実施したファン投票によるMVPにも2位を大きく引き離す2,463票を集めて選出された。
さらに6月に開催された第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め各1失点で後続につないで2勝を記録、大会最高殊勲選手に選ばれた。
2007年7月に米国で開催される第36回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。代表監督を務める河原井正雄青山学院大監督は「(不敗神話に賭けるというより)勝ってもらわないと困る」「空振りを取れる球を持っている選手を選んだ。順番的にはトップクラスでの当選。(斎藤を)先発で行こうという気はある」などと語り、期待を寄せた。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し勝利投手となったが、リリーフで登板した第5戦では一転して制球を乱し、敗戦投手となった。
2007年の日米大学野球選手権では米メディアに対し「日本のプロ野球を経験してから、メジャーに行きたい気持ちはある」と、将来的なメジャーリーグ行きの意向を示した。
